【コミュニティ運営3年間のレポート】地域SNSが発展していくダイナミズム!地域SNSの活発は地域の交流を開き、文化水準が上がる!メンバーの創造の欲求と多様性が増していく世の中が、ワクワクしっ放しです。
3年間のコミュニティ経験を経て得た、コミュニティの恩恵・意義って何だろう?
交流が活発に開いていき、3年間で2600人が集まった事はひとつの成果と考えています。
他の街でも地域SNSは盛り上がり、中には数千から万単位で人が集まっているコミュニティもあるので、【世の中的に望まれている地域SNSの一部】を担う場、管理する者として、色々なコミュニティを参考にしながら運営を継続していきます。
他の地域・地域SNSも含めてですが、そこでの情報のやりとり、交流の経験によって以前よりも便利になった面、生活にSNSが浸透した事で、何らかの変化があったのではないでしょうか?
交流がしやすくなる事で世の中が開かれてきた事は、垣根が少しずつ薄れ、風通しが良くなる事。
それは、かつての監視や閉塞等の、変化に対応しにくい社会から、少しずつではありますが変化に対応出来る場がネット上から広がっていると考えます。
メンバーがそれぞれの考え方、それぞれの行動で後天的に学んでいく事が、個ではなく、コミュニティと言う集団が”文化”を創りだし、それを継承している。
そんな認識と実践に地域SNSはなっているのでは。
人の創造的な欲求と多様性、その定義は、人の数だけある。
だから、文化の水準が上がっていくんだ。
そう、自分は考えています。
大震災後、行政依存への不安が地域SNSの後押しに?
現実での大地震や原発問題等から、行政依存が揺らいだ事は、"ひとつのものにすがる"信仰が、その不安の受皿を様々なものへと分散されていったのではないでしょうか?
人が多く集まる地域SNSも、その受皿のひとつだと。自分は地域SNSが活発になった背景に、震災を経た人の在り方の変化もあると、考えています。
大震災を経て起こった、かつてない大雨(鬼怒川堤防決壊)の時には、浸水や道路状況、線路状況等、情報が一気に上がり、パニックになったメンバーをあやしたり、コミュニティと言う場が"自動的"に情報共有の場やインフラになり、行政側の方ともやり取りがありました。(行政側も見ていた、結果ログを提出)
この経験は大きく、管理する側も情報と交流に加えて、"地域SNSはもはや無くてはならない場所"、そして"インフラになりえる"と、考え方が強まりました。(他のSNS含めて)
そこに"場"が出来た事が、大きかった
上記の経験を経て、やはり『場がある事の意義』が一層強まります。使う側としては、SNSって最初は何をしてよいかわからないからこそ、ここで経験していけばいいのです。最初はみんな、素人ですから。
先ずは欲求ありき
『地域SNSでは何をする?』と言う問いに、立ち上げ時に準備したものは、商売発信(お店の宣伝)OKでした。地元の"商売"は"地域"に根付き、やっている側には死活問題だからです。ダイレクトに投稿=売上になる訳ではありませんが、4年目を迎えた今も、商売発信は継続されています。
では、個人は何を?
やはり何をしてよいかわからないなんて時は、欲求を満たせばいい。
『人が集まっているからそこにいる』そんなライトな参加から、『ここを使って儲けたい』なんて野望に、『街を良くしたい』『楽しそう』等、参加の理由は人それぞれです。
見ているだけの人もいる中、やはり『主張したい』、と言うのが人間でしょう。 この主張、欲求を満たす個人の動きが、一番コミュニティを活発にしている、そう感じています。 自分のやりたい事と人のやりたい事は違うものだし、考え方も人それぞれ。
感情的になったり衝突する事もありますが、
『こう言うやり方もあるんだ!』
そんな人のやり方や気付き等、徐々に投稿のバリエーションが増し、レベルも上がっていきます。最初は何を発していいかわからない、顔を出すのはちょっと、なんて方が今ではごく普通に投稿している例も珍しくありません。
交流がより開いていく事で、わだかまりや垣根のようなものが次第に薄れていくと共に、新しい人や動きが出てきます。 そうやってコミュニティの間口が開いていく事は、融通のきかない古い体質の場から変化に対応出来る場に変わっていく、と捉えています。
それはまるでコミュニティの起源である、『村社会では今後の変化(バブルや高度成長の歪み)に対応出来ないから、その変化に対応出来るコミュニティと言う考え方が生まれた』と言う1970年代の考え方を、経験出来たような気持ちです。
言えない事が言える。
抑えていたものが出せる。
欲求の放出は、強く、クリエイティブです。
新しいもの、ゆがんだもの、鋭利なもの。
その動きのダイナミズムは、文化の水準を上げ、多様性が増していく。
健全なコミュニティって
コミュニティ内では、好き嫌いも競争も対立も、何より反逆があったって不思議ではありません。むしろ、それこそが健全であり、皆で同じ方向を向く必要は無いのです。 そんな中、色々なジャンルで発信に秀でた方が出てきたり、問題を起こす人が出てきたりと、人が集まる"るつぼ"は今日も賑わっています。
だからこことは違う考えのコミュニティが生まれても、それは不思議な事ではありませんね。
そして"層"が出来る
次第にコミュニティ内で"層"が出来ている事に気付きます。(これは、初期の頃にメンバーの方に教えてもらいました)多種多様な動きも考え方もある場ですが、その動きには、"層"のようなものが見えて来ます。
・コミュニティ主旨を分かって投稿する人
・コミュニティ主旨に関係なく投稿する人
・いい情報があればそこに行く人
・『いいね』をする人
・無関心な人
・見ている人(日本人に多い、いわゆるサイレントマジョリティな人もここに。この層にいる人達は経験もあって状況を把握している人も多いから、将来の協力者にもなる。)
そして、1番上に位置するのが、
・コミュニティ主旨を理解しつつ、コミュニティ自体の存続を考える人。
この層が全体の1〜2割いると、コミュニティは運営しやすい。今や管理人の手を離れても自動(自治)運営出来る状況は、この層の充実を意味するのでは。
地域SNSは何をもたらしたの?
・交流が開いていった。
・情報の幅も量も増えてきた。
・知人が増えて、人と関わりやすい繋がりやすい環境が出来た。
・知名度と共に、市民権を得た。(と考えている)
・コミュニティからクラウドファンディングで仕事が誕生した。これはコミュニティで出来る事の可能性の証明かと。
(個人的:吉川にいながら春日部の情報や交流が出来る環境になった=他の街も同様=場所も時間も選ばないネットの良さ)
・交通渋滞や事故、浸水、事件等、情報共有の意識高まる。
……等々。
これらの事は地域SNSが浸透する事で(便利に)変わってきた事の一部ですが、それは使う側の慣れと、場に経験値がたまる事によるものであり、今後も増えて来ると断言出来ます。
交流が開いた事で、文化の水準が上がる、そんな可能性を自分は地域SNSに見出だしています。
この3年間で、コミュニティで初めて会った方達が化学反応を起こし、街を賑わせている事実。
個ではなく、集団が”文化”を創りだして、それをゆる~く継承している認識と実践の場。
人の創造的な欲求と多様性、その定義は、人の数だけあり、コミュニティはそんな文化の種と言うべきメンバー有しているバンクで、そのひとりひとりの投稿は資産です。
地域SNS、コミュニティの派生(コミュニティはひとつじゃない)
管理人としては春日部の地域SNSからはじまりましたが、今ではそこから派生させた複数のコミュニティを管理しています。地域は人に会いに行くから、情報や交流しやすい街って、ふらり行けるんですよね。自分が住む周囲の行った事の無い駅に降りる。最近はそんな機会が増えました。
『地域に垣根は無い』なんて考え方を、周囲地域のコミュニティ化で、証明したいですね。
③見つける、せんげん台(せんげん台ピンポイント/行政より名前許可)
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初期検討、動機
以下にコミュニティを立ち上げる為の動機や検討を記しておきます。方針や目的は、ここで出来る事が増えていく度に変わっていきました。
そこに無いから作ったコミュニティ
当初、『無いから作った』埼玉県春日部の"地域SNS(コミュニティ)は、今までの春日部にない考え方(やり方)や、5年と言う時間を過ごした自分の好きな街に一石を投じたかったし、SNSと言うネット交流の文化を地域に根差して、自分(達)がやりやすい環境を作りたかったからです。
動機は自分の為であって、人が役立つもの
『自分の為』が『人に役立つ』時に発信は届きやすいし、継続が出来ると考えているので、他の考え方もある中、地域に無いもの(考え方)を導入する事からスタートしました。
自分&参考意見
参考にしたのは街の知人や関わる人の意見と、吉川市から春日部に来た"よそ者"としての自分視点です。
・小さい団体はいっぱいあるけど、それらがまとまらない
・他の街にあるコミュニティがここには無い
・他の街から単身来た自分が思う事とし
①初めて街に来ても安心出来る場があれば便利
②自分が春日部に来るのは人に会うため
③村社会のような閉鎖な場は発展しない
④『ここにくれば誰かいるから安心』と言う安定・安心の場が欲しい ⑤凄さよりも便利や役立つもの こんな考えから……
★他の街から来たら『先ずはここ』と言えるような安心安全の場を作りたい
★新しいお店、スポット、情報が上がる場(新しい店が出来たら、先ずはここで!)
★商売OKの場(生活がかかっているから死活問題。率先して使ってくれるのでは?)
★ツイッターのような拡散タイプではない、地域コミュニティとして場が成長する(これが小さな街作りのように)
★主旨は情報と開いた交流であり、村社会のような閉鎖な場に逆行しない
★イメージとして、小さなグループが多く在る場に『コミュニティ』と言うシートを被せる事で、その上を相互に行きやすくする。(強引にまとめる、形を変える、大きくする事ではない)
この辺りまでが、初期です。
資料から得たもの
資料を得たのは運営してからとなりますが、自分の手助けとなっています。
①1970年頃の行政が提唱するコミュニティ論
②弱い紐帯は強い(論文) ①は運営よりも知識として好んだものですが、自分のコミュニティ観の骨格と言うべきものです。
・コミュニティとは現状の変化に柔軟に対応しにくい街とは違う、変化に柔軟に対応出来るもの。
・コミュニティと言う言葉は、悪いイメージも響きも無い。(だから採用された)
・5人組から始まった。
・町には、過去には周囲の監視やファシズム等、深く入り込んだ歴史があった。
・村社会ではバブルや高度成長の歪みに対応出来ない為、それ以外の方法としてコミュニティと言う考え方が誕生した。
・その循環には新しい風(メンバー)が必要。統治が長いと変化が起きない。
②米国の社会学者マーク・グラノヴェッターが発表した論文、仮説です。
(抜粋)新規性の高い価値ある情報は、自分の家族や親友、職場の仲間といった社会的つながりが強い人々(強い紐帯)よりも、知り合いの知り合い、ちょっとした知り合いなど社会的つながりが弱い人々(弱い紐帯)からもたらされる可能性が高いといいます。これを「弱い紐帯の強み」の理論と呼びます。
(自分的)家族や近い位置にいる仲間よりも、数度会ったくらいの知人(現実とSNS共に)から、新しい価値・関係性を得られやすい。つまり地域SNSとの相性がバッチリな考え方として、取り入れています。
家族のような強い絆は皆が理解していると思いますが、数度会ったぐらいの"弱い絆"にも価値を見いだしては如何だろうか?
コミュニティとして3年が経った今、そこで初めて出会った方達の発信や行動が、文化の水準を上げて、多様化していく。
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